邦楽からくち雑感

 月刊紙「邦楽ニュース」のコラムに“邦楽からくち雑感”として掲載いたしましたものをご紹介します。私の邦楽に対する考え方の一端をご理解頂けたら幸いです。
(発行:日本の伝統音楽を守る会・司音楽事務所 掲載年月:2007年7月号〜2008年5月号)
邦楽からくち雑感(1)
 本年4月号の「邦楽ニュース」の巻頭に大瀧氏の“邦楽の発展を考える(2)”という一文があり、氏はその中で、毎月何を書いても反応がなく、邦楽関係者の無関心さを嘆いておられましたが、その無気力さが、こゝ20年来の邦楽界の着実な衰退傾向を象徴していると思います。
 私が邦楽(主として箏曲)に本格的に取り組むことになったのは、今から約25年前、当時“邦楽の友”の編集長の職を辞されたばかりの田尻喬氏から「今のままでは邦楽界は必ず衰退して行く、邦楽界全体のレベルアップのために、邦楽も洋楽も詳しい香登さんの力を貸してくれないか」と相談を受けたことがきっかけでした。
 田尻氏は、当時すでに邦楽界のあり方に問題意識を持っていて、「こんなことを続けていれば50年後には邦楽を聴く人もやる人もいなくなって、邦楽は過去のものとなって博物館行きになるだろう」とも言っていました。
 その田尻氏が亡くなられてもう20年位になりますが、それ以降邦楽界は、かつての氏の予言通りになってきているように思われます。
 では今、我々は何をなすべきかを様々な面から考察して行きたいと思います。
今までにも色々な人の“発展を考える”とか“10倍にする運動”とかの提言がありましたが、いま一つ結果が出ていないように思われます。しかし誰かが石を投げることは大切なことなので、私は現在の邦楽界がかかえる問題点を一つ一つ充分に考察し石を投げ続けて行きたいと思います。そこから、賛成・反対の意見が沸騰して行けば邦楽の発展につながるのではないでしょうか。
 何しろ、いま日本人の殆どが“邦楽はたいくつでつまらない”と認識しています。事実、日本中でそんな“たいくつで、つまらない”演奏会を半世紀以上続けて来たので、客席はいつもガラガラです。当事者ですら、会が終わるまで客席にいないで帰ってしまうのが当たり前のようです。当事者も自分達のやっていることは“たいくつで、つまらない”と知っているからなのでしょう。
 こんなことで“邦楽の発展”など考えられるでしょうか。現状維持すら危ういでしょう。次回はこの点について考察して行きたいと思います。(つづく)
邦楽からくち雑感(2)
 前号で、私は“邦楽はたいくつで、つまらない”と書きましたが、それは邦楽が全てたいくつで、つまらないと言っているのではなく、またそう思っているわけでもありません。
 本物の伝統芸を引き継いだすばらしい演奏に接すると、たいくつなど吹き飛んで、思わず引き込まれて身を乗り出してしまいます。そこにはすばらしい“音楽”があるからです。
 しかしその様なすばらしい演奏に接することができるのは、日本中探しても、年に1〜2回あるかどうかというのが現状で、長年に亘り行われている三曲協会や大きな社中を中心とした“演奏会”と称する催しものは、そのほとんどがマンネリ化した “観客・聴衆不在の自己満足的プログラム”がただくり返されているというのが実態です。わざわざ会場まで足を運んで来てくれたお客を楽しませ満足させ得る “音楽”の会とはとうてい言い難いものです。ですからすっかり“邦楽はたいくつでつまらないもの”という先入観を一般の人たちに植え付ける結果となってしまったのです。
 いわゆる三曲のお師匠さんや邦楽器屋さんは口を揃えて近年の邦楽界の状況を嘆きます。先生方は「生徒が集まらない」「会をやってもお客さんが来てくれない」、お琴屋さんは「楽器が売れない、これではとてもやっていけない」などなど・・です。
 これらの原因は、邦楽愛好家が減り続ける一途で、新しい愛好家が一向に増えないことにあるのは明白です。ではなぜ減り続けるのか、なぜ増えないかということを、今まで先生方やお琴屋さん達は真剣に考え、それに対処する努力をしてきたでしょうか?
 一般社会では、大衆に魅力のあるものは良く売れ、魅力のないものは売れないのは常識です。この半世紀、社会は激変してきました。今の邦楽はその中にあって一般大衆からみて魅力的に感じられなくなってきているから売れないのでしょう。
 ではこの時代に、いま邦楽界はどう対処すべきかを考えなくてはなりません。家元制などを含め、いろいろな問題もありますが、まずは基本的に“邦楽を音楽として考える”という原点が大切だと思います。いままでの邦楽界には“音楽”とは無縁な不思議なことがいっぱいあります。
 まず魅力あるソフト(=音楽=作品と演奏)、そしてハード(=楽器)を創る努力から始めなければだめでしょう。なにしろ邦楽も音楽なのですから。(つづく)
邦楽からくち雑感(3)
 昨夜、私のところに「先日、先生の“千の風になって”の譜を購入した者ですが、調絃のしかたがわかりません。平調子からどのようにして合わせたらよいのでしょうか。教えて下さい」というFAXが入りました。
“邦楽を音楽として考える”という原点を大切にしよう、と先月号で私は書き、また邦楽界には音楽とは無縁な不思議なことがたくさんあるとも書きました。冒頭に紹介した調絃の問い合わせなども、五音階でなければお箏で曲は弾けないと勘違いしているケースで、まさに一般の音楽と無縁なこの世界を象徴しています。無論この人を責めるつもりはないので、丁寧に調絃の説明をし、もっともっと色々な音楽の楽しさを味わってください、とお伝えしました。
 尺八が一般に解放された明治以降のいわゆる箏・三弦・尺八の三曲の世界では、明治政府が文部省教科に西洋洋楽を組み入れた後も、ひたすら伝統のみを重んじ、他のジャンルの音楽に関心を示さず、また融合を計ることもなく現在に至っています。(ごく少数ながら新しい分野に取り組んで来た人もいますが・・)ですから三曲の世界では口伝で芸を伝承するような部分が多く、理論的・体系的に“音楽”を教えることがほとんどなされて来ませんでした。
 世界中いたるところ、ヨーロッパ・中東・アジア・アメリカ・中米・南米などに各民族が育んだすばらしい音楽があります。その中の一つに日本の三曲があるのですが、ではその中で箏曲「六段」は世界的にどう評価されているのだろうかという考察がなされているでしょうか?
 では“音楽”とは何なのでしょうか。音楽は3つの要素から成り立っています。3つの要素とは何でしょう、とお免状を持っている大師範の先生に聞いても、即座に答えられる先生はほとんどなく、たいていは「まずメロディーでしょう?・・・う〜ん、それと・・・」となってしまいます。いうまでもなく音楽の3要素とは、メロディ(旋律)・リズム(拍子)・ハーモニー(和音)の3つです。普段私たちが耳にしている音楽はだいたいこの3要素が満たされた状態の音楽ですが、民謡や子守唄のように旋律だけのものや、太鼓・ドラムだけで旋律のないものなどがあります。
 箏曲「六段」などの古典曲は、ほとんど旋律だけで、拍子と和音という2つの要素が欠落しているので、総てを旋律だけで表現しなければならず単調になりがちですから、魅力的に演奏するには高い技術と音楽性が求められるのです。
 おざなりでマンネリ、稚拙な大合奏の古典曲ばかり何十年も聴かされてきた一般大衆は皆すっかり
邦楽から離れていってしまいました。
 香登みのるは洋楽の音楽家だから西洋の音楽理論にあてはめて考えたがる、とは決して考えないでください。いま自分たちが立っている足元を冷静に大きな視点で見てみることこそが自分たちの行っていることの意義や大切さを知ることになるのです。(つづく)
邦楽からくち雑感(4)
 先月号で「音楽の3要素」について説明をし、最後にこれは西洋の音楽理論であると誤解されるような書き方をしてしまいましたが、念のため、これは西洋・東洋あるいは日本といった区別のない、普遍的な学理であるということをまず申し上げます。
 先月は3要素の話から、殆ど1要素の“旋律”だけしかない古典箏曲のむずかしさについて考察をしましたが、今月は引き続き3要素のうちの“拍子(リズム)”と古典箏曲について考えてみましょう。
 拍子には偶数系の2拍子と奇数系の3拍子があります。ほかに4拍子、6拍子があり、さらに5拍子などがありますが基本的にはすべて2拍子と3拍子の2種から派生したものです。
◎ 拍子には必ず強拍と弱拍があります。これが重要です。2拍子では1拍目が強拍で2拍目は弱拍です。3拍子では1拍目が強拍で2・3拍目は弱拍です。時計の振り子が秒を刻む音の様に、強・弱のない一定テンポ音の繰り返しでは拍子は生じません。
 拍子に強拍と弱拍があるということを教えるのは音楽指導では最も基本的で大切なことですが、古典箏曲は拍子の無い世界なのでその指導は殆どされておりません。拍子という観念がないまま3拍子や4拍子の普通の曲を弾くと全くノーリズムで平板になってしまい、せっかくの「涙そうそう」や「千の風になって」も、お箏で演奏するとこんなにも単調でつまらない曲なのかと思わせることになってしまいます。しかし、その様な結果になってしまうのは、弾いている人達が悪いのではなく、リズムについては何も教えてもらっていないので仕方のないことなのでしょう。
 日本人は農耕民族だから、もともとリズム感は無いなどという人もいますが、決してそんなことはありません。日本人で世界的に活躍しているジャズやロックのミュージシャンは大勢いますし、ニューヨークで活躍しているラテンバンドもあります。
 「五段砧」や「八重衣」などは私の好きな古典曲ですが、複雑な変拍子にも思えるあのようなむずかしい曲を長年弾いてきているお箏の先生方がリズム感が悪いとは決して思いません。しっかり理論立てられた音楽トレーニングを行えば、3拍子や4拍子の普通の曲は楽に弾けるはずです。(もちろん音楽というものはその上に種々の音楽的要素が絡み合って出来ているので、リズムさえ良ければいいという訳ではありませんが)
 古典はもちろん基本で大切なことはいうまでもありませんが、古典曲だけが総てでそれしかできないというのもあまりに音楽の世界が狭すぎるのではないでしょうか。今でもバッハ(八橋検校とほぼ同時代)、モーツアルト等の古典曲は大切にされ、世界中で演奏されていますが、それが音楽の総てではありません。世界中にはほかにまだまだ沢山の素晴らしい曲があるのです。古典曲はその一部分です。
 お箏の世界でも、古典曲は大切に残しつつ、いろいろなジャンルの可能性を探求していかなければと考えます。まずはしっかりとした指導法を確立して、そのもとに魅力的な演奏がされるようになればきっと聴く人の心をとらえ、結果として箏の愛好家が増えていくことになるでしょう。(つづく)
邦楽からくち雑感(5)
 毎月一回のこの「からくち雑感」も今回で5回となります。毎月私の独断でかなり乱暴な意見を書かせて頂いていますが、とりわけ「とんでもない、けしからん!」という反論もなく、かといって「邦楽界はもっとこうあるべきだ」というような建設的意見もないようです。
 ただ嬉しいことに先月までに2・3のご賛同と音楽の3要素についての異論を頂きました。もともとこのコラムで“音楽の3要素”について、などという音楽の講義をするつもりはなかったのですが、私が30年近く全国のお琴の先生方とレッスンで接してきた中で、何十年お琴を弾いていてもあまりにも音楽の基礎的な知識を持たない人の多さに驚かされたため、まずこのことから話を始めなければならないと思ったのです。
 この“音楽の3要素”について異論を頂いた方は、かなり専門的な研究肌の方で、西洋のいわゆるドレミの音律と東洋の音律は違うとか、リズムには1拍子が存在するというような、むしろ哲学的時空の考察とでもいうべき高いレベルのご意見でしたが、このコラムの論拠は“邦楽の発展を考える”ということですから、この音楽論を追求しても邦楽愛好家が増えるということと結びつかないと思われるので、ご意見だけありがたく頂戴いたしました。
 2〜3ケ月前から大手のお琴屋さんが億単位の負債をかかえて倒産という噂が聞こえてきました。いよいよ来る時が来たか、という感があります。
お琴屋さんといっても、製造、問屋、小売とあるでしょうが何処も景気の良いわけはなく10年位前から日本中で毎年数軒ずつ倒産していると聞いていました。
 この現状にお琴屋さんは危機感を持っているでしょうが、お琴のお師匠さんたちは果たして同じように切実な危機感を持っているのでしょうか?だんだんお弟子さんは減って来ていても、相変わらずの「六段」「千鳥」、新しくて「春の海」という発想の上にあぐらをかいていては箏曲人口は減る一方でしょう。このことはこのコラムの第1回、第2回にも書きました。
 お琴という楽器が売れ続けるためには、毎年新しくお琴を習い始める人が出て来なければならないのに、現実はお琴を弾いてみようという人は減る一方です。
 何か楽器を弾いてみたい!と思うときにはきっとそこには感動のある“音楽”があると思います。私がギターを習いたいと思ったきっかけは、そこに「影を慕いて」や「禁じられた遊び」という素晴らしい曲があったからです。こんな素敵な曲が自分で弾けたらどんなに楽しいだろうと思い、中学生の時でしたが、楽器店の中でやっているギター教室を見つけて、親を説得して習いにいきました。
 いまの若い人たちがお琴を習ってぜひ弾いてみたいと思うような曲があるかというとなかなか見つかりません。でも良く探せば客席から思わず手拍子が出てきたり、涙を流しながら聴いてくれるような、楽しくてそして感動的な曲もあります。
 「私もお琴が弾いてみたい!」と思わせるような素晴らしい“音楽”をやりましょう!(つづく)
邦楽からくち雑感(6)
 9月の末から10月、11月まさに音楽シーズンの到来で、洋楽のクラシックから邦楽の古典まで毎週のように演奏会があり、たくさんのご案内・ご招待を頂きましたが、さすがに全部には伺えず失礼をさせていただいた会もいくつかありました。
 邦楽の会の中には芸術祭参加公演もいくつもありましたが、その中の一つに私の40年前から旧知の尺八のM氏の芸祭参加公演があったので久しぶりに伺いました。
 プログラムは2部構成となっていて、第1部は古典本曲3曲、第2部は現代曲3曲(現代曲といっても3曲とも40年位前の作品)でした。
 私はそもそも尺八の古典本曲というのは、それこそ邦楽を代表する“たいくつさの極み”の一つだと思っていたので、そのつもりで聴いていましたが、終わってみるとたいくつだったのは奇を衒ったような現代曲の方で、古典本曲の方がずっと深い味わいがあり、その世界に引き込まれている自分に気付きました。何の演奏でも同じですが音楽はやはり本物を聴かないといけませんね。本物の芸に接するとうれしくて、生きている喜びを感じます。でもなかなか本物には出会えません。年に1・2回出会えればラッキー‥‥??
 味わい深いという言葉で思い出したのですが、最近お箏で気になっていることがあります。それはお箏の絃の締め方のことです。何しろ強い張力でガチガチに締めてあり、強押しが満足に出来ない楽器に何度か出会いました。17絃でもパンパンに張ってあるのがあって、体力のない人にはとうてい1音押しは出来ませんでした。
 お箏の“押し手”はこの楽器の音程の泣き所ですが、一方“あと押し”は他の楽器では表現できない箏独自の魅力的な奏法です。この左手による表現技術が筝曲に味わいを与えるのです。音の“上行時のあと押し”と“下行時のあと押し”ではニュアンスが違います。まさに左手のテクニックの見せ所です。
 左手による音楽表現手段には、まだ他にヒキいろ、ユリいろ、ビブラート、それらのミックス等多彩な可能性があります。お箏を演奏する方々はこの左手の技術を大切にして音楽表現を豊かにして欲しいと思います。
 ところが絃の張力が強すぎると左手の技術が生かせません。ヒキいろは絃の張力を弛めることによって音程を下げて魅力的な音楽表現をするのですが、もともとの張力が強すぎると張力を弛めることが出来ずヒキいろの効果を出せません。“あと押し”にも必要以上の力が必要になり正確な音程が出しづらくなったり、ユリもしているつもりでも結果が出にくくなります。   
 このように張力が強すぎると左手による微妙な味わい深い音楽表現が困難になり、右手の技術だけに頼った平板な演奏になりがちです。
 古典曲が作られた時代には絹絃しかなくて、緩い張りのお箏でゆったりとヒキいろ、ユリいろ、“あと押し”等が優雅に奏でられていたと思われますが、今はテトロンやナイロン絃がパンパンに張られたお箏で、右手だけが速く動く人が「お箏が上手な人」となっている傾向があるようです。でも私はなにかちょっと違うという気がするのですが‥‥(つづく)
邦楽からくち雑感(7)
元旦の横浜のレストランでの初仕事でも、先ずは「春の海」から弾き始めました。何十年もの間にお正月のテーマ曲となってしまったこの曲を元旦の仕事で弾かない訳には行きません。
 今や、街の中でお琴と尺八の音が聞けるのは殆んどお正月のみで、この曲が定番となってしまった現在では、やはり「春の海」は邦楽関係者にとっては大切な曲に間違いありません。
 ただ、私達の琴アンサンブルでは「春の海」も原曲のままには演奏していません。現在の日本のお正月の雰囲気に合うように、途中からはサンバのリズムに編曲して演奏したり、「六段」も後半はロック・ビートにしたり、その他にもジャズあり、西洋クラシックあり、ポップスありです。
 レストランという場所は、身内と邦楽関係者だけが集まっている演奏会場とは違い、一般のお客さんにお琴や尺八を生で聴いてもらえる貴重な場ですから、邦楽の魅力を十分知ってもらえるよう、途中にライブ感覚の楽しいトークを交えたり、いろいろ工夫しながらステージに臨んでいます。
 私はいつも先ず、聴いてくれる(聴きに来てくれる)お客さんに楽しんで もらえるだろうか、満足してもらえるだろうか、を考えて演奏曲目を選定し、 ステージではベストのパフォーマンスに集中します。
 客席からの空気、お客さんの反応がすぐに私達演奏者に伝わってくるのがライブ・ステージの醍醐味です。たまたま偶然にふらっと入って来た見ず知らずのお客さんが、1曲毎に私達の演奏に気持を同化させて行き結局最後までしっかり聴いてくれたりすると、本当に嬉しくなります。
 近年は、マス媒体のラジオやテレビから琴・尺八・三絃の音は殆んど聞こえて来なくなり、CDショップに行っても邦楽(CDショップでは純邦楽と言っている)CDの陳列スペースも店もどんどん少なくなって来ていますから、各地で行われている三曲演奏会は一般の人達に琴や三味線・尺八を生で聴いてもらえる貴重な場であり貴重な機会です。この貴重なチャンスと場を邦楽関係者はもっと真剣に捉え、一人でも多くの人が“私もお琴弾いてみたい!尺八を吹いてみたい!”という気になるような魅力的な演奏会にしていく努力をしなければいけないのではないでしょうか。
  現在日本中で行われている邦楽の演奏会のプログラムの内容を見ると、圧倒的に古典曲が占めています。もちろん私は古典曲も大変結構だと思います。何度か素晴らしい演奏にも接して来ました。しかし一般の人達が「邦楽は、たいくつでつまらない」と言うようになったのはなぜでしょう。
 「琴で弾く曲=古典曲でなきゃ!」と声高に言う先生方がまだまだ多くいらっしゃいます。お琴は古典曲しか弾けない楽器でしょうか。お琴で洋楽など他ジャンルの音楽を弾くのは邪道でしょうか。お琴と同じ撥絃楽器であるギターは、西洋クラシック(古典)音楽はもちろん、ジャズ、ロック、ラテン、フォーク等あらゆるジャンルのポップス、民族音楽、日本では演歌まで、と広く世界中で愛され使われています。しかしやはりお琴は古典ものしか弾けない(弾いてはいけない)楽器でしょうか?
 私は、お琴はまだまだ多様な可能性に満ちた魅力的な“楽器”であると考えています。お琴を“楽器”として捉えると古典曲だけでなくあらゆるジャンルの音楽への道が開けます。
 作曲・編曲をする際、お琴という楽器の構造上の制約や弱点に突き当たり苦しむことがありますすが、それはどの楽器にも言える事なので、マイナス面をカバーしつつ、逆にお琴独自の魅力をいかに引き出すかが、やり甲斐を感じる部分でもあります。
 お琴でいろいろなジャンルの音楽をやろうとすると、まずリズムのとり方が一番問題になりますが、リズムの表現上“休符”は非常に重要なので、休符”について触れたいと思います。私はよくお琴の先生方に「休符もしっかり演奏して下さい」と言いますが、休符を演奏するということはどういうことなのか?そのことについて次号で深く掘り下げてお話をしてみたいと思います。(つづく)
邦楽からくち雑感(8)
 一昨年のNHK紅白で歌われて以来、昨年は遂に100万枚を超えるヒットとなった「千の風になって」は、近年売り上げの退潮傾向が続くレコード業界にとっても久しぶりに活気を与えてくれました。
 お琴や尺八の愛好家や先生たちも、こぞって「千の風」の譜面を求め演奏しています。やはり古典曲だけでなく、身近ないい曲もやりたいようですね。
 先月号で私は“お琴は古典曲しか弾けない楽器でしょうか”という問いかけをしたのですが、まだまだ現在の日本の一般大衆は“お琴では「さくら」のような日本調のものしか弾けない”と本気で思っているようです。
 私の琴アンサンブルでは、昨年来もう数え切れないくらい何回も「千の風」を 演奏して来ましたが、何処でも“すばらしい!感動しました!” といわれ、“お琴でも「千の風」がこんなに素敵に演奏できるのですね”と感心されました。 現実に“お琴では「千の風」のような曲は弾けない”と思っている人がこんなに沢山いることに私の方が驚かされました。        
 琴を“伝統楽器”という枠から外し、純粋に撥絃楽器の1種と捉えると、全く別な“楽器”が出現するような気がします。もちろん古典曲もやりますが、それのみではなくあらゆるジャンルの音楽を奏する弦楽器“琴”の出現です。      
 そこで先月号予告の「休符」の話に入ります。お琴で長年古典曲だけを数字譜で弾いてきた方々が一番苦手なのはリズムのとり方でしょう。      
 お琴の古典曲には2拍子とか3拍子の拍子(リズム)が存在せず、1拍づつが延々と続いて行くのみで(もちろん旋律の句節はありますが)殆んど休符もありません。琴譜にも〇△のような休符はありますが、現実には全く無視されており、意味を持っていません。 〇や△の中に黒点があってもなくても関係なし、で弾いてしまっています。拍の強弱、休符による無音の間(ま)、この2つの要素が無いとリズム表現は出来ないのです。しかし、お琴の古典曲しか弾いたことのない方々は、この2つの 要素を持っていないので、古典曲以外の曲、例えば「千の風」の様なポップス系の曲をを弾くと、譜をただ順に弾いているだけの単なる音のら列になってしまい、曲に(音楽に)ならないのです。      
 「お琴は音の減衰の早い楽器だから休符なんか気にしなくていい」などと乱暴なことを言う先生もいますが、いささか無神経と言わざるを得ません。フルートや尺八などの管楽器、またバイオリンなどの擦弦楽器で休符を無視して音を出していたらどうなるでしょうか。休符は休むのではなく、能動的に音を止めなくてはいけないのです。
邦楽からくち雑感(9)
 私は、毎週日曜お昼の「NHKのど自慢」番組が結構好きで、在宅のときは必ず観るようにしています。この番組は日本の津々浦々小さな町まで巡って、その地の素人のうた自慢・のど自慢が出演して鐘の数を競うわけですが、その内容はうたの上手・下手を競うというより、うた好き・音楽好きが大勢集まって音楽その ものを楽しんでいる感じがして、そこが好きなのです。
 この番組に出ている人達のうたに対する思いを聞いていると、亡くなった母や遠距離恋愛の恋人への想い、入院中の父や闘病中の夫への励ましの気持、新婚の喜びや祝いの唄、そしてつらい生活への応援歌など様々な人生模様がうたに託されていることがよく分ります。
 私は“うた”というものは、人間の心の純粋な発露だと思います。心になんの想いも感情もない“うた”というものがあるでしょうか。楽器を演奏するという行為も心の中にある“うた”を楽器に託して“うたう”ことでしょう。
 お琴でも尺八でも、全く“うたう”気持ちを持たず、ただ譜の順番に 音を出しているだけ、のような演奏をよく聴きますが、それはもう音楽でも“うた” でもなく、ただの音の羅列にしか過ぎません。 お琴・尺八をやっている人達の多くは、古典曲の無拍子(ノーリズム)のお稽古が主で、特にお琴の場合は殆ど親指ですべての旋律を弾く傾向があるので、流れるような旋律のラインが表現しにくく、“うた”にはほど遠い演奏になってしまいます。ただ旋律をがむしゃらに速く親指だけで追いかける演奏には私は「お疲れさま ご苦労さん」と言うのみです。ピアノを親指一本で弾いてみたらどうなるでしょう?

 またこの番組を観ていると、現在の一般日本人の音楽レベルや音楽嗜好もよく分ります。出てくる人達の年齢層も厚く、小学生から90歳代までとまさに日本の一般大衆といえる人達が参加しています。曲目を聴けば今日本で多くの人に愛されている曲の傾向も分かります。 この番組には、童謡、演歌、フォークソング、ロックンロール、クラシックから 民謡まで、まさに多岐に亘っていろいろなジャンルの曲をうたう人が出てきます。
 そして驚くことは、うたう人達のレベルが20〜30年前と比べるとずい分上がって来ているということです。本当にリズム感も良くて上手な人が多い。これはカラオケの普及が大いに貢献していると思われます。しかしお琴の先生方にはカラオケ愛好家が意外に少ないのですね。カラオケをやるとリズムに乗れなければすぐにオケとずれてうたえなくなるし、音程の悪さもはっきり分り、勉強になることが沢山あってとても良いのですが・・。
 カラオケもやらない、邦楽以外のジャンル(ジャズ、ロック、ラテン等々)の音楽も殆んど聴かない(聞いたとしても自分の音楽知識として蓄積されない、つまりただ聞き流すだけ)、外からの音楽的刺激を受けない状態でひたすらお琴だけ弾いている、それを本人は“純粋にその道を極めている”つもりなのでしょうが、世の中の情勢(音楽を含めて)が激変していても全く無関心で、一般から遊離した世界にとどまっている人達が邦楽界にはいかに多いかを思わざるを得ません。
 明治時代になって尺八が加わって始まった、いわゆる三曲合奏の形態は、周りの情勢が変わっても、そこだけは時間が停止したような世界となっています。
 歌舞伎はその魂を保ちつつ、時代に即した変革を重ねていますし、長い歴史を誇るクラシックの世界でも気軽に楽しく聴けるような様々な努力がなされています。
 箏・三味線・尺八によって演奏される日本の伝統音楽は西欧のバッハの音楽のように300年以上も前の古典音楽ではなく、100年余り前に始まったばかりの音楽形態ですから、伝統の良さを残しつつ明治・大正・昭和・平成の時代に応じた変化をして、常にその時代の一般大衆に愛されるような継承の仕方をして来てもよかったのではないかと思います。
 今月は、半世紀以上に亘って日本人に愛され続けてきている「NHKのど自慢」の番組を観ながらの雑感でした。(つづく)

邦楽からくち雑感(10)
“邦楽ニュース”のこの欄に、邦楽に関する私の勝手な感想を毎月書かせて頂いて来ましたが、今回で丁度10回になるのでここで一区切りとして、ひとまずペンを置かせて頂きます。
 この間、読者から幾つかのご意見を頂きましたが、数としてはそんなに多いとはいえず、大瀧社長のおっしゃるように、邦楽界では何をいっても無関心・無気力な人ばかりなようです。
 印象に残っているご意見としては、「もっと本当にからくちに書かなくては駄目だ。甘い!」「内容はその通りだが、毎月毎月現実をつきつけられると気が滅入ってしまう」というのがありました。
 確かにあまり明るい話題はなくて、私も滅入ってしまいます。今はまさにグローバル化の時代です。インターネットで世界中が瞬時に結ばれ、あらゆる情報を世界中の人が同時に共有できます。
 音楽も、世界中のあらゆる国の、あらゆるジャンルのものを聴くことが出来、またすぐ手に入れることも出来ます。この様な今の音楽環境の中で、邦楽に携わる私達はこれから先どのような道を行けばいいのでしょうか。
 邦楽の歴史を大雑把に辿ってみても、時代とともにいろいろな変遷があります。三味線音楽である地歌と筝との合流による地歌筝曲への発展、八橋→生田→光崎という検校による、三味線音楽の歌物から独立した器楽曲としての純筝曲の出現。そして明治時代
 以降は、筝も尺八も盲人や僧からひろく一般民衆に開放されたので、いわゆる三曲合奏が広まり、その後宮城道雄が洋楽と接近した新しい曲を作り、一般大衆の中に邦楽が盛んに行われるようになったのですから、昭和・平成の80数年の時代の変遷とともに少しづつ発展してもよかったと思われるのですが、なぜか大正末期あたりで時間が止まってしまったようです。
 この100年は人類史上(地球創生以来)最も生活環境が短期間に激変した世紀でした。100年前にはジェット機もテレビもCDもインターネットもありませんでした。その中で100年変わらずに生き残ってきた邦楽は貴重な文化遺産ですが、果たして今後はどうなるでしょうか。
 私は、音楽はその時代に生きている人間がやってこそ音楽だと思います。三味線や筝や尺八がガラス箱の中に入って博物館に陳列されるようになったら、“邦楽”という音楽は終焉です。そうならないために皆で今後どうすべきか考えましょう。
 私は今後とも音楽と共に生きて行きたいと思います。音楽と共に人生を楽しみ、感動し、喜び、悲しみ、そして癒されながら・・・(完)